デンティスト・K氏の一日 


星新一風ショートショートで描く 歯科医療の未来

2036年。月曜日の朝。

術衣に着替え、診療所のドアを開ける。

「おはようございます」

五つの声が揃った。スタッフロボットたちだ。型番はそれぞれ違うが、挨拶だけは完璧に揃う。
人間のスタッフはというと、歯科衛生士が二人。今日も遅刻せずに来ている。それだけで、もう十分だ。

モニターで予約リストを確認する。

今の時代、電話予約はAIが対応する。

流暢な日本語で、患者の電話番号から治療内容を把握し、適切な日に枠を入れてくれる。私の出番はない。

ただ——たまに一時間話し込む患者がいるのは困りものだ。AIも根気強く聞き続ける。そのあたりは少々、優秀すぎる。どうしようもない場合だけ、私の首のボーンスピーカーに問い合わせが届く。診療の手を止めなくていい。悪くない。

さあ、仕事だ。


今日の最初の患者はMさん。格闘家だ。先日の試合で上の前歯を失った。本来ならインプラントが適応だが、

「どうせまた抜ける」

と本人が笑って義歯を選んだ。

武骨な体格のMさんが、緊張の面持ちで入室してくる。

「よろしくお願いします」

Mさんが深々と頭を下げる。格闘家が歯医者に緊張している。この絵面は、何年経っても慣れない。

義歯の製作にかかる。
隣の歯にレストシートを作るため、タービンで削る。バキュームのロボットアームが瞬時に位置を合わせる。
昔、人間がアシストをしていた頃は、連携がうまくいかなくてずいぶんストレスがたまったものだ。今はない。ただ、削る音はそのままだ。Mさんがわずかに眉をひそめる。

型取りは光学印象だ。
口の中にいっぱい広がるあの粘土のようなもの——患者から最も嫌われていた工程——はもうない。カメラが20秒で終わらせる。データはWi-Fiで即座にシステムに飛ぶ。3Dプリンターが動き始める。仮義歯、完成まで四十分。
いわば仮縫いだ。

Mさんに合わせる。
少し幅が小さい。

「もう少し大きく」

修正を入れる。
他は問題ない。

「本番を出力します。完成は3時間後になります。」

システムが静かに告げる。

「ちょっとひと練習してきます」

Mさんは軽やかに出ていった。


その間に、ブリッジの患者。

私のゴーグル型デバイスに、切削ラインが光で浮かび上がる。その線に沿って削ればいい。

見えない部分もロボットが補助する。

歯科は外から見ると楽そうに見えるが、実際は重労働だ。
頭を使い、気を使い、手を使う。

今は違う。頭の部分をAIが、気を使う部分をモニターが、手の部分をロボットが補ってくれる。

頭の部分は、パノラマX線をAIに読影させると、私より正確に問題を拾い上げる。最初はプライドが傷ついたが、今はそういうものだと思っている。

気を遣う部分は、患者の緊張度、疼痛度、異変がモニターに表示される。何かあればアラームも鳴る。

そういえば格闘家Mさんの緊張度の数値は上がりっぱなしだった。不思議なことに格闘家やスポーツ選手には歯科恐怖症の人がけっこういる。あんな過酷な戦いをしているのに、自分で制御できないことは怖いらしい。

歯科業界は、五十年以上、いやそれ以上か。ほとんど変わらなかった。
それが、この十年で一気に変わった。
ようやくだ。

むし歯は早期に発見され、神経を取ることはほとんどなくなった。エナメル質の再生も可能になった。

歯周病はもう根絶された。きちんとケアしている人には、無縁の病気になった。

すでに簡単な治療は 歯科ロボットに任せている。

そのうち、ブリッジという治療自体も消えるだろう。

今は無歯症だけの適応だが——
歯を生やす薬すら、もうできている。


夕方、Mさんが戻ってきた。少し汗をかいている。本当に練習してきたらしい。

義歯を装着し、微調整をする。
使用方法の説明は、ホンモノの人間の歯科衛生士が行う。

「こうやって外して、ここを優しく洗ってくださいね」

このコミュニケーションの部分は、まだ人間の独壇場だ。

「できれば可愛い衛生士に説明されたいなあ」

とMさんが冗談を言った。うちの衛生士はおばちゃんだが、愛嬌は抜群だ。Mさんも、表情がほぐれていた。

診療後のカルテ入力は音声で行う。AIが私の言い間違えさえフォローして、カルテ用語に変換してまとめてくれる。手で入力していた頃は、ミスも多かった。

受付では、ロボットがMさんの対応をした。Mさんは指輪型デバイスにバンドルされたブロックチェーン対応ウォレットで支払いを済ませ、次回の予約を入れ、医院をあとにした。


今日は他に十人を診た。

ラボではCADCAMのトリミングと3Dプリンターが動いている。彼らは二十四時間対応だ。お掃除も滅菌作業も、ロボットたちがやってくれる。人間だと手を抜くところも、彼らは完璧にこなす。

ミーティングを終え、帰宅する。

ふと思う。

削ることも、作ることも、読むことも、
ほとんど機械と分担している。

では、私は何をしているのか。

患者が不安そうにこちらを見る、その瞬間に、
「大丈夫ですよ」と言うこと。

それだけかもしれない。

いや——それでいいのかもしれない。

格闘家Mさんの次の試合は来月の祝日、東京ドームということだ。 私も応援に行こう。